遊学の森トラスト

遊学の森トラスト in 安房鴨川

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5月3日 田植えレポート③

遊学の森レポート            村上小百合

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 五月三日、遊学の森の田植え。午後は野草つみ。
夜は杉山さんのお宅で。つんだセリで餃子づくり、
そして遊学の森と安房マネーの人々の宴。
囲炉裏に車座になって、田中さんの旧友である藤澤さんの
オーガニックコットンのお話しなどを聞いた。
三度目の参加になりますが、
これまでにパンにうどんによもぎジュース作り・・・。

本来であれば草取りと収穫と、田んぼに比重があるのでしょうが、
田中さんとあべさんの考えてくれている、
みんなで何かを作って食べるというのも楽しみのひとつです。
なるほどと思いながら、意外や簡単に自分で作れたことで
小さくとも自信がつく。
知らない、体験がないというのは弱く、それ故、買って済ませていた生活が
なんと安易でつまらないものだったのかと思い知らされる。
惰性で思い込みのままに、お金を使うしか能がない。
泣き寝入りしたり、巻き込まれたり。いざ、暮らしていく上でその知恵がない者は、弱い。

 今回、もちろん田植えをしたということは貴重なことでした。
やはり、米は元気の源です。

 でもここに来て、変わらないこと、残るもの、それが大切なことだとしたら、
田中さん・あべさんの生活の姿、暮らしぶりだと思いました。
それに、あべさんの人を包みこむ力です。

 泊めていただいた翌日、すっと目が覚める。
名物のペットボトルの湯たんぽの残り香のようなぬるさに足を絡めながら、
外からは日のひかり、小鳥のさえずり。
東京では眠りと新しい一日の間に決別が必要なのだが、
ここで迎える朝は、まさに朝だ。目覚めたからだには充足があり、
自然の力がそうさせるのだろう。
生きものを休ませもし、励ましもし。あのよく干された布団は、
あべさんそのものみたいだ。訪れたものに、
「いらっしゃい」
とあべさんは全身で言ってくれる。まして、来てくれて
「ありがとう」
と言ってくれるなんて!食事の支度から後片付け。
みんなが田んぼにいる間も、遊学の森に必要な裏方をしてくれています。
それをただ大変なこととは受け止めないで、
みんなの喜ぶ顔を自分の喜びにして、人を招き、人を送り出す。
だからこそ訪れたわたしたちは居心地が良く、知らない間に元気をもらっている。

 最近、愛犬クロはひとりで野山を走り回っている途中に
毒を口にしてしまったのだという。
毒にやられた小動物を口にしたものか、経緯はよくわからないものの、
家に帰って震えが止まらず
・・・神経をやられてしまったクロは、あべさんの部屋で看病されたという。
わたしたちが見たクロは落ち着きを見せつつあった。縁側であべさんに身を任せて、
撫でられるままのクロを見ていると、クロはこうやってもらいたくて、
死んでなんかいられないと思ったんじゃないか、そう思えてくる。
クロはペットではない、犬だ。種は違うけれど、家族だ。
人間の暮らしと犬の暮らし、それがあいまって、共にある。
暮らしがなければ、種が違うものとこんな風にはいかないのではないか。
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 三日の朝ごはんと昼ごはんは田中さん家の納屋で。
大きなテーブルに椅子を並べて、目に映るものはみんなの顔と初夏のみどり。
玄米に白米、みそ汁、ここで取れた野蕗の煮付け、鮭の切り身、小魚の甘露煮、
生野菜(紅いクコが散らばっている)、かぼちゃと小豆のいとこ煮、
長いもの梅干し合え(さらに梅酢で合えてある)、
珍しい烏骨鳥のゆで卵(あべさんの友人が育てている)
等々、が並びました。
お茶請けにと煮栗、おやつまで手作りを用意してくれていました。

 きれいに使い込まれた台所には、炭の入った水甕、
洗剤をつけなくてもいいような毛糸で編まれたスポンジ。
ここで炊かれるご飯、沸かされる野草茶。
その日々のこと、そこに立つ人の気配が台所にはある。
料理にだって、作る人の気持ちがある。
食べることは人をひとりにはしない。
生かし生かされる輪の中にいて、食べることは分かちあうことなんじゃないか。
ひとりでは分けられない。自然に抱き込まれ、
感謝することを知っている人の暮らしは、ぶれることがない。
生きることはこうした衣食住のことなんだと、
自然がそこに還してくれるのではないかと思った。
洗面所にさりげなく置かれた、歯磨き用のはこべ塩もそのひとつである。

 田植えは「田植え足袋」と呼ばれる地下足袋を履く。
足袋のようなフックはついておらず、靴下のようにそのまま履く。
それぞれが帽子を被る。総勢20名近く。
実は田植えってどうやるのだろう、手で植えるって?

 遊学の森式は、二本の木の棒に間に長い長い紐が張られてある。
紐には等間隔に大きなビーズのような玉が付いている。
田植えをする人々は横一列に、その玉を頼りに。
片手に持った苗床から、3本を取り、玉をひとつ置きに、ひとり4列を植える。
田んぼの外側にいる人は、田んぼの形に合わせて、
その端に木の棒を差し、紐を緩めたり、きつくしたりで紐を張る。
そうやって一列を終え、また目安の紐が前に張られる。 

そこに植え、また繰り返す。
等間隔は、田んぼの泥濘に足をとられて、ずれる。
背を照らす陽射しにくたびれて、ずれる。
声を掛け合い、帳尻を合わせながら、
みんな腰を屈めて進んで行く。

 わたしは東北で生まれ育ったのですが、
小さい頃、年寄りというものは決まって腰が曲がるものだと思っていました。
見かけるおじいさん、おばあさんは、
いつだってお辞儀でもするかのように腰が曲がっていた。
今になって思えば、加齢のせいでもなく、
毎日の田や畑に従事のした人の歴史のままに曲がったのだと思い当たります。
鴨川でわたしは通りすがりの、旅行者のようなものですが、
しばし、こうやって土に触れていると、米や野菜を育てることは、
自分を育てることなんだと恥ずかしながら気付かされます。
天候に一喜一憂し、自分の気持ちや体がついていかない日も、
それでも立つ。お百姓さんというのは自然に即し、
苦しいことも喜びに変わると信じている、芯の強い人のことではないのか。
自分がさぼれば、米がさぼると。

 年寄りが言う、
「米を粗末にするとばちが当たる」
というのは、自然の力と人の営みが織り成した、
紛れもなく体験に裏打ちされたことばなんだと今更ながらに思います。

 午後は田んぼのまわりに群生したセリ、よもぎ、蕗、すぎななどの野草つみ。
セリは何といっても晩の餃子の具、取らなくては!
後は各々、おみやげ用に好きなものを好きなだけ。
セリはおひたしに、蕗は煮物。
よもぎは餅にしてみたいが、難しいかな。
すぎなは天日に干して、お茶。
利用方法に疎いのだが、思いを巡らせながら、楽しかった。
歩いて行って、つんで、家に帰って食べる。瑞々しい野草、力に満ちている。
食べて良し、治すのに良しの野草のことを
遊学の森でこれからも体験できたらいいなと思う。

 杉山さんのお宅では、捌いて干した房総の魚を囲炉裏で。
セリのおひたし、取れた筍の煮物、等々。
それに、米を作るところでのもてなしと言えば、杵と臼でのつきたての餅。
納豆にごまにきなこ。
座敷を借りて作ったセリ餃子は時間が押してしまい、流れ作業でした。
慌てて、小麦粉を練り、皮を作り。山ほど刻まれたセリ、たまねぎを
包む。延べ棒で皮を作る役と餡を入れて包む役と。
手始めに田中さんがジャンボ餃子を作ったからなのか、デッカイ餃子が出来ました。
でも、デッカイというのがいいのではないか。
料理本のレシピとは違って、遊学の森のは大らかだ。
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 月明かりの下、犬は気の向くまま。鶏はもう眠ってしまったのか・・・。
子どもたちもやってくる。太鼓で太古の昔に戻り、珈琲を飲み、夜は更ける。

今は昔。そうではない。大切なことはそれでも残る。
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